高野山をお開きになられた弘法大師空海(こうぼうだいし くうかい)(私達は尊敬を込めてお大師様とお呼びしている)の青春時代については、24歳で「聾瞽指帰(ろうこしいき)」を著わし、登場人物の一人に自らを投影し、仏教に眼をつむり、真理に耳を貸さない人々に仏教の素晴らしさを指し示してより、31歳で遣唐使の一員として歴史上に登場してくるまで、杳として謎に包まれています。しかし、この不明の青春時代に、何をどう学び、どんな修行をされたのかということは、中国の人達が「あなたは、自分の才能をひけらかすために中国に来たのか」と驚く程の学殖となって現れ、皇帝の宗教的指導者であった長安青龍寺の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)をして「我、汝の来ることを知りて、相待つこと久し」と言わしめる深い悟りの境地に達しておられたことから知られるのであります。 青春時代に何を学び、何に打ち込むかがその人の人生を決めるのです。
33歳で帰国され、44歳にして、弟子達がこの世の平安を祈るための道場として高野山の開創を願い出られ、50歳にして京の東寺を真言宗の学問道場と定め、未だ、その二つが建設途上にあったにもかかわらず、55歳で庶民のための学校「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」の設立を目指されました。この様にお大師様のご生涯を振り返る時、その最後の目標が教育であったことが知られるのです。人を育てる上で最も重要なのは「人」即ち教師です。 私達は、その教師を育てるために新たに教育学科を開設いたしました。
高野山大学は、お大師様を理想の人格と仰ぎ、その生涯にまねびたいと思われる方々を受け入れたいと思います。
令和3年4月1日 高野山大学長
添田隆昭